がらがらポンでおもちゃ箱
「傷つく」ということ
〜あるワークショップで感じたこと〜
私は大阪YWCA教育総合研究所に所属している。この秋、ワークショップのファシリテーターとして、さまざまな所に行く機会を得た。テーマも、人権教育、子ども、人間関係づくり、ジェンダー、企画力養成、対人援助者としてボランティア講座、異文化理解などなど多岐に及んだ。参加者も様々だ。ほんとうにいろんな人に出会うことができた。自ら学ぼうと熱意あふれる人、職場の研修でいやいや来ている人、いろいろ悩みを抱えた人、同和奨学金を受けている大学生などなど・・・。エネルギーもいるけど、この仕事をしていてほんとうに幸せなのは、たくさんの人に出会い、たくさんのエネルギーを、暖かいものを参加者からもらえることだ。
でも、くやしい気持ちで帰る時もある。とりわけ、上からの強制された研修の時はほんとうにむずかしい。参加者の顔に、“いやいや”、“仕事山のようにあるのに”、“疲れている”、などが書いてある。考えてみれば、参加体験型研修といいながら、受動的に参加させられているわけだから、ある意味無理がある。ある教員研修の時は、はじまって20分で「参加体験型学習なんて、今の学校現場になじまない」「子どもの気持ちも大切だが、どれだけの先生が過労死、不登校になっているか知っているか」などなどの意見を頂戴した。しかも、その先生は開始から15分遅刻していたのだから、約5分の参加での発言である。その時は、ほかの参加者から、「なじまんかなじむかは、やってみなければならない、終わってから言うべきだ」という意見がでてそのまま続けた。でも、逆にそのある意味で素直な本音?が最後には幸いして、最後のシェアリングの時には、「子どもとどう向かい合ったらいいのか悩む」「体力気力があとどれぐらいもつか」などの正直な参加者の思いも出され、それに対して他の参加者が励まし、希望を語るといった展開が起きた。こういう時は、やっぱり参加体験型学習はいいなと感じる。講師と学習者の間だけではむずかしくとも、参加者同士のやりとりの中でエンパワメントしあう関係がうまれてくるからだ。
それでも、私自身にとっては後味の悪いワークであった。それは、先の発言の参加者が休憩の時間に私をつかまえ、感情について「いい大人が子どもじゃあるまいし、傷つくなんていうのはおかしい」といったことが、どうも私の中で複雑な怒りがくやしさとして残っていたからだ。たぶん、やりとりのなかでの私の「私も傷つくこともありますし・・・」と言った発言を捉えてのことのように思う。
私は、人間はいくつになっても傷つく存在であると考えている。大切なのは、その傷つきをどう、自分が受けとめ、どう、昇華し、学ぶかだと思っている。傷つく自分を、情けないとか、みじめだとか、社会的な立場だとかで、抑圧することで、私は苦しい思春期を過ごしてきた。特に小学校の時の、朝鮮人だといじめられ傷ついた経験が自分の中でみとめられず、そんなみじめな存在ではないと懸命にあがき、他人を傷つけ、自分を傷つけてきた。正直、差別されるのは、いじめられるのは腹が立つ。そして、怖い。その怖さをごまかすために私は、日々憤っていた。(ほんと、一杯傷つけました。ごめんなさい)。リンダジンガロさんという、カナダのカウンセラーのワークを受けた時に、彼女が言った言葉でとても印象に残っている言葉がある。「怒りには恐怖がある」と。その恐怖とは、人間を信頼する、生きることを肯定するという人としての当然の営みが根底からくつがえされそうになる恐怖ではないかと思う。
私は、今ならいえる。差別された時みじめだったと。こわかったと。そして腹が立ったと。傷ついたと。それでも、私は知っている。人は信じるに足りうる存在であると。私は、その後時間はかかったけれど、たくさんの人と出会い、たくさんの愛情をもらった。そして、傷つき、ひねくれ(今も?)、あがいていた過去の私をいとおしいとすら思える。今、私は単純かもしれないけれど、ワークに向かう時、私がもらったすばらしいものを私ができるかぎり、伝えたいと思っている。そして、たぶん伝わらない時もあるとも感じている。
それにしても、「子どもじゃあるまいし・・・」と発言した人は、いったい一杯傷ついている子どもたちを前に、大人としてどう応えているのだろう。
李 福美(い ぽんみ)