がらがらポンでおもちゃ箱

ひねくれものの私と、
幼稚園・小学校の思い出

 小学1年生の時、忘れられない思い出がある。本読みをさせられたのだが、何回読んでも、やり直しをさせられる。その理由は、今思えば、私の本読みは大阪弁で、標準語ではないということ。先生が何度も言い直す、それと同じように発音できない私は、もうどうしていいかわからず、涙が今にもあふれそうになった。その時、先生が「もういい、次の人」と隣の男の子を指名した。すでに心は泣いていて、まばたきをすると涙がこぼれるのがわかる。こぼしてはいけないと、とっさに鉛筆を落とし、その鉛筆を拾いながらランドセルにつけてある給食袋で涙を拭いた。顔を上げると、隣の男の子も何度もやりなおしをさせられていた。彼はついに泣き出した。そして先生の言葉、「何泣いているの。村田さん(当時の私の名前)みてみ、泣いてないやろ」。

 ああ、泣いていたことをごまかせてよかったと、思うと同時に、複雑な想いで胸が一杯になった。幼稚園が嫌いだった私にとって、学校に行くことは希望でもあった。地味で、くらくて、どんくさくて、どうひいきめにみても、かわいいとはいえない私は、子ども心にも、幼稚園の先生からかわいがられていると感じたことはなかった。ある時は、みんなが外で遊んでいるのに、私が遊んだわけでもない、おもちゃをわたしが出したと決め付けられ、一人片付けを命じられたこともある。まあ、その時に持田君という男の子が一緒にかたづけてくれたのだけど。うれしくて、彼が好きになってしまったが、彼は小学校入学と同時に転校してしまった・・・。そんな屈折した幼稚園児にとって、小学校は公正な場所で、勉強をすれば認めてくれるのだと思っていた。字も簡単な九九もわかっていた私は、自分が賢いと思っていたのだ。今となっては穴があったら入りたいぐらいはずかしい自己認識だ。

 でも、そんな私にとって、この1年生の本読みは自分ではどうにもできないハードルだった。自分では読めていると思うのに、だめだといわれる。正直なところ、この先生は私のことが嫌いなのだと思った。そして、私は自分で学習してしまった。つまり、小学校の先生も幼稚園の先生も、私が朝鮮人だとしっているから、いじわるなんだと。たぶん、先生はそんな意識もなく、ちゃんと教育しなくてはと思ったのかもしれない。でも、ここが怖い。7歳は7歳なりに、社会の空気を敏感に感じている。すくなくとも私の経験では。私は理由がほしかった。この大人の理不尽な対応に。

 ところで、私の子どもたちは生まれたときから、民族名で生きている。今のところそれでよかったと思っている。私は自分を隠すことで、いつもいつも大人を疑ってきた。それはいやだった。愛情すら(まあ、ここに書いたことは愛情ではないと思うけど)素直に受け取れなかった子ども時代の私がいやだった。私の子どもたちは、そのまんまで保育所の先生に学校の先生にいっぱい愛情をもらっている。時に怒られもしている。特に上の娘は、今のところ先生がすきですきで、保育所の先生、学校の先生の話をする時の顔はうれしさで一杯である。

 私が被害妄想が強かっただけなのか、時代が変わったのかよくはわからない。でも、私の子どもたちのそういう笑顔に出会うと、やっぱりうれしくてしかたない私がいる。ところで、次はうれしかった先生との出会いを書きますね。

李 福美(い ぽんみ)

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